自転車と釣りと余白と

自転車と釣りと周辺の余白について

浜名湖のチヌ釣りとガイドサービス

8月初旬、静岡県浜名湖にてチヌ(クロダイ・以下チヌと表記)のフライフィッシングガイドサービスを利用して楽しんできた。

昨年9月末、釣り仲間に誘ってもらい初めて浜名湖へ釣りに行ったのだが、その日は荒天でサイトフィッシングが出来ず、残念な結果となった。その日は、釣りの途中で次回への勉強と割り切って、ガイドの喜多さんにこの釣り(チヌのサイトフィッシング)のノウハウ(特にチヌの見つけ方)をみっちり教えてもらった。
それから1年後の今年8月、その実践釣行となった。

 

真夏の晴天となった当日は、朝からチヌの姿をよく見た。素人の私でもそれなりに視認できるような状況だったが、ガイドの喜多さんはそれ以上に素早くチヌをサイトしてくれて的確なアドバイスを出してくれる。ガイドの目は確かで全くの隙が無い。ガイドが指し示した魚影を私自身も確認したら、それらに向けてフライを投げる。
しかし、中々バイトに繋がらない。ガイド曰く「なんで今ので食わないの!」という状況が続いた。ちょっとフライを追いかけてはみたものの途中で嫌って帰ったり、全く無視したりというのが続いた。私が未熟で正確にフライを投げられないというのもあるが、それにしても、もどかしい時間が続いた。

 

湖面に立ち込んで2時間ほどもどかしい時間を過ごしてから、ようやくチヌを釣った。
それは、私自身で見つけたテイリング(チヌが湖底のエサを食い尾鰭が水面上に突出する状態)だった。そのチヌは単独でエサを食っていた。波間に一瞬だけ尾が上がったのを視認し、その場所をマークして、そっと回り込んでフライを投げ、釣った。
南西の微風が湖面をわずかに乱す中、最適であろう位置にて再度尾が上がるのを待ち、再び尾が上がった時に、そこへ向けてフライを投げた。
「追ってますよ!!追ってますよ!!」
ガイドが言ったその時、ゆっくりとリトリーブしていたフライラインが何かに引っかかったような感触と共に真っ直ぐになった。バイト・・・
早アワセ、竿を大きく煽るアワセは厳禁と自身に言い聞かせながらフライラインを手繰り続け、充分に重みを感じてから竿を起こす。
青いブランクカラーのグラスロッドが曲がり、走るチヌをいなす。
数度のやり取りがあって、ガイドの差し出すネットに収まった。
がっちりと握手をする。1年待ってやっと手にした。


ゼロとイチでは極限に違う。ようやく1尾を手にし、妙な緊張もほぐれて、何か憑き物がとれたように気持ちが軽くなった状態で、その後釣りを続けた。
程なくして、2尾目のチヌを釣る事が出来た。
2尾目のチヌは、フライを投げて、目の前を通すと、猛然と追いかけてきてフライを咥えた。


この日は結局2尾のチヌを手にした。どちらもサイトフィッシングで仕留ることが出来た。

今回、ガイドサービスを利用して釣りをしたが、非常に「質」の高い釣りが出来た。
ガイドサービスを使うことに対して、釣人それぞれの考えはあると思うが、私自身はそれほど拘りが無いので、特に浜名湖のような釣り場なら積極的に利用しようと思っている。
よく知らない釣り場、特に遠方の釣り場で、限られた時間で釣りに集中したいとなったら、ガイドサービスの利用は最適解だと思う。
もちろん、自分自身でゼロから組み立てて釣りをする事の面白さ(いや寧ろそれこそが私自身の釣りの信条である)は良くわかるのだけれども、「質」の高いガイドサービスの利用は、釣りそのものを純粋に楽しめるので、遠方への釣り旅や時間が限られた中での釣りに利用してみる事をお勧めしたい。
日本ではまだそれ程「質」の高いガイドサービスが普及していないような気もするが、これから発展して行くと思う。
また、ガイドサービス=確実に大漁を保証してくれる・無垢な魚を一杯釣らせてくれる・魚釣りではなく魚獲りをさせてくれる・・・ではないという認識が釣人側に一般化して欲しいと個人的に願っている。

 

 


※参考

今回お世話になった浜名湖のガイドサービス

ワタツミガイドサービス 代表 喜多賢治さん


 








 

 

 

「Vor dem Gesetz」について ~フライフィッシング・本流ヤマメ釣り2022年備忘録~ 

本流山女(ヤマメ)

今年2022年も、春から初夏にかけて、いつもの本流へヤマメ(山女)釣りに通った。
もうかれこれ20年近くその川に通っている。飽きもせずよく通えると思うが、一向に飽きる気配が無い。
今年も桜が咲き始めた頃から川通いが始まった。

3月末日

峠道の雪が融けたのはつい最近の事。ようやく本流へ行ける。
3月の末日、昨年破損した竹竿の補修を頼んでいたロッドビルダーさんの工房を訪ねる。その本流のほとりにある工房を訪問するのが本流の釣りを始めるにあたっての毎年のルーティンとなっている。
手土産の地酒を提げて工房のドアをノックする。中へ招き入れられ、コーヒーを飲んで、四方山話をして、ではそろそろ・・・となり、二人して川へ繰り出す。遠くの山にはまだまだ雪が残り、晴天とはいえ少し肌寒い感じ。桜はこの辺りではまだ咲き始めと言ったところ。
いつものポイント、いつもの風景。
この時期はオオクマ(オオクママダラカゲロウ)が出るか出ないかと言ったところで、ライズが見れるかどうかもわからないという状況だけれども、ここ数年は安定してライズを見ているので今年もライズするだろうと楽観的に構えていた正午前、ロッドビルダーさんがライズを発見する。ハッチの主体は不明。
あぁ、今年も始まった・・・

ライズを待つ

まだ拗れる前のライズだろうと少々安易に考えていたそのライズは、中々手強く、流すフライを無視したり、反応をやめたりする・・・何回かフライを交換して、やっと釣ることが出来た。毎年この川で初物を無事ネットに収めるまでは、胃の痛い思いをするが、今年は特に胃が締め付けられて痛かった。緊張と解決、そして長いシーズンが始まった。

2022年の本流初物のヤマメ サイズはともかく緊張が弛緩する最初の1尾

4月中旬

最初のライズを釣ってから、暫く経った4月中旬、川原に立った。
私は、前回の釣行後すぐに沖縄へ飛び、亜熱帯の太陽の下で、その川のことを思い出しながら過ごしていた。釣りとは無縁の沖縄生活から帰ってようやく時間が出来て川へと向かった。川は何も変わらずにそこにあった。
水生昆虫の羽化、ハッチに呼応したライズを釣るのはフライフィッシングの特権といってもいいのかもしれない。というかそうであって欲しい。ハッチする虫に似せたフライ(毛鉤)を自作して、それを独特の竿と糸を使って、ライズする魚に向かって投げる・・・ごく単純(簡単ではない)な釣りだと思う。
その単純な釣りの一番いい時期が、その川では4月中旬からとなる。
正午を挟んだ前後2時間の間に、物語が進行する。
オオクママダラからオオマダラ(オオマダラカゲロウ)へと、ハッチが移行してゆく中、ヤマメ達は盛んにライズを繰り返し、釣人は心躍らせる。
この時期は川で釣り仲間に会うのが楽しみでもある。この川で待ち合わせをしたわけでもないのに顔を合わす釣り仲間。余計な身の上なぞ話す事もなく、ただひたすら釣りの話をして終わるだけ。気楽でいい。
頃合いにライズが始まる、話はそこそこにして皆目当てのライズへと向かう。

ライズへ・・・

今年は私の地元の釣り仲間をこの川に誘った。
一番いい時期を予想して誘ったものの、釣りは水物で、予想は必ず裏切られる。あれこれプロットを練るも、その通りには進まないのがドキュメンタリー。往復800キロの旅路を無駄にしてしまうかもと思うと、中々気軽に声をかけられない・・・
だけれども、そんな杞憂は無駄だった。
最盛期の川は躍動し、生命力に溢れていた。オオクマやオオマダラなどのメイフライがハッチのピークを迎えると、ヤマメも盛んにライズした。
釣り仲間も私も、翻弄されながらも楽しい時間を過ごした。

地元の釣り仲間の釣果

ある日は日帰りで、ある日は週末の泊まりで、地元の釣り仲間と釣りをしたが、どちらも印象に残る釣りになった・・・と思う(緊張と解決)。
春の大型連休前の、釣り仲間との釣行は、週末の土日釣行で川は釣人が沢山いた中での釣りだったが、みんな本流ヤマメを手に出来た。私も落穂拾いをしたが、充分に楽しめた。たまにはこういう釣りもいい。こうして前半を終えた。

初夏の躍動


5月の風

大型連休を挟んで5月の本流は、日中の釣りから夕方の釣りへとその主体を移行させてゆく。いわゆるイブニングライズの釣りが主体となる。イブニングライズ自体は4月からあるものの、本格的になるのは5月の連休を過ぎた辺りからだ。
ハッチの主体も、メイフライからカディスへと移行し、それでいて小さなメイフライが集中ハッチしてそれに固執するヤマメがいたりして、簡単なようで複雑(いつだってこの釣りは簡単なことはないが)な釣りを強いられる。そして、ライズを釣ることをテーゼとしていると、そのライズが、日暮の直前のわずか10分の間だけという事態が起こりがちなのもこの時期。それへの対処を迫られ、準備と段取りと手順を間違えると、とぼとぼと帰路につくことが多くなるのもこの時期・・・

代掻きも終わり、田圃に水が張られ稲が植えられたた5月のある午後、本流へ。
まだ日が高いうちは、瀬を釣り上がる。少し大型のメイフライを模したフライをドリフトさせると、それらしき場所からヤマメが出てくる。水温が上昇し魚のコンディションも良い。「うりずん」とは瑞々しいという意味の沖縄の言葉だけれども、まさにうりずんな景色とヤマメだと感じる。

うりずんの季節

またこの時期は、荒い瀬を大型のストーンフライを模した#6程度のフライでアクションを付けながら誘ってゆく、フラッタリングの釣りも面白くなる。
今年は大型のヤマメは釣れなかったが、それでも迸る流芯から飛び出してきたヤマメはいた。ライズの釣りとはまた違う釣りで少々ルアー的ではあるものの、これはこれで楽しい。

流れの真ん中から豪快に飛び出してきたヤマメ

 

こうして鮎釣りが解禁となる6月までを本流で過ごした。
その中で、一番印象に残っているヤマメは5月の下旬のある日、夕暮れ時にライズしたヤマメ・・・

小さなライズの正体

その日は昔からの釣り仲間もその川に来ていた。お互い単独行動だったので電話で連絡をとって入るポイントなどを確認しあった。

私はイブニングライズに実績のあるポイントで待機した。だけれども、どうにも落ち着かず、別のポイントへ移動した。既に暗くなりかけてはいたが、どうにか別のポイントへ入る事ができた。

イブニングのポイント

・・・このポイントはここ数年ずっとルアーマンが入れ替わりに入っているポイントで釣りをしたくても出来ない状況だった。私自身はいつもオオマダラの季節にはそれなりにいい釣りをしていたので、最近のそういう状況が残念でならなかった。ある日偶々誰も居なかったので釣りをしてみると、放流固体であろうヤマメが核心ポイントから出てきてガッカリした。
その時に一人のルアーマンがやって来て少し話をしたのだが、どうも昨年(2021年)に大きなヤマメがこのポイントでルアーで釣れたらしい・・・と教えてくれた。らしい・・・というのはSNS上での情報だそうで、出所もハッキリしないらしいが、何故か場所だけはここだと確信を持っていた。ここ数年の状況はそういう事情なのか・・・と、妙に納得した。
そのルアーマンは自作ミノールアーだけを使って釣りをするそうで、色々見せてもらったが、工芸的美はあるなとは思ったが、それ以上の感慨はなかった。また彼は私の持っている竹竿と1950年代の英国製のフライリールに興味を持ったようだったので、試しに振ってもらったが、感嘆詞が少し出ただけだった。その後彼はそそくさと川に入って行った・・・

というようなここ最近のポイント事情ではあるが、とにかく空いていたので、さっさと川に立ち込んだ。

午後7時前、全く水面に変化が無いまま腰まで浸かった状態で立ち尽くしている。
それらしい流れを凝視しているが変化が無い。
水生昆虫のハッチも無い。
・・・
プールの尻で、何か飛沫が上がった気がした。
そちらを注目しても、何も無い。
やにわにストーンフライ(オオヤマカワゲラ)が水中からハッチしてきた。
瞬間、飛び立ったストーンフライの下で何かが波紋を立てた。
ヤマメのライズだ。
それっきりかと思ったら、暫くして、その場所から少し上流に移動して、静かに鼻先を出すライズをした。1回・・・2回・・・夕闇迫る中、静かにライズを始めた。
フタオカゲロウ系の#16番位のメイフライがハッチしているのだろうことは過去の経験から何となく推測できた。なのでそれに合わせたフライを既に6Xのティペットに結んであった。
あとはそのライズへ向かって投げるだけ。距離はちょっとある。
ともかく投げる。
上手い具合にレーンにフライを入れられた。
ゆっくりドリフトするフライ。
フっと鼻先を出すヤマメ。
吸い込まれるフライ・・・
竿を煽って、アワセをくれる。

手に伝わる衝撃から、大きいとわかった。
ローリングをさせまいと竿を横に寝かせて矯めにかかる。
無理は出来ない・・・
ゴボゴボッ!!という音をさせながら、ヤマメはもんどりを打つ。
一向に手前に寄せられない。
じりじりとした時間が過ぎる。

その日同じ川の別のポイントに分かれて入った釣り仲間が作ってくれたネットにヤマメが収まった時には、既に辺りは薄暗くなっていた。
メジャーを持っていないのですぐにはわからないが、明らかに尺(30cm)は超えている。

静かなライズの主

サイズだけは知りたかったので、太いティペットを魚体に合わせて切り取る。スマートフォンでヤマメを撮影し、元気なうちに流れに戻す。
ヤマメは、ゆっくりと深みに姿を消していった。

別場所でイブニングを迎えた釣り仲間に電話をし、落ち合う。
メジャーを借りて、先ほど切り取ったティペット片の長さを測る。
尺は優に超えていた。

このヤマメを釣った日から、実はその川には行っていない。何となく、これで今年は終わりにしておいた方がいいのじゃないかと。

雑感として

少しはフライフィッシングの初心者になれたかなと思ってはいた自分自身だったが、初心者どころか入門すら出来ていない、それ以前の事象で止まっているということを思い知らされた。どうしたらフライフィッシングの入り口に立てるのだろうと、また振り出しに戻らされてしまった。迷中迷・・・

とうとう門番が行ってしまうのか・・・開いていた門は閉ざされ、そこを通る事は生涯出来ないのかもしれない。
フランツ・カフカ "Vor dem Gesetz" を思い出す。


本流ヤマメ釣り備忘録2022年




 




 

2021年 回顧

2021年も、もうすぐ終わり。

今年の最後に、散文を少し・・・

ここ2年ほどの世情として、個々に対して「自粛」を強いられてきた影響なのかもしれないが、どことなく「社会」という漠然とした何かを意識した釣りを私自身はしていた気がしてならない・・・その結果として、釣りに関しての私の認識が少し変わった年であったなと思う。具体的に何が変わったのか?は言語で説明しづらいが、確実に以前の私の釣りの認識とは違うものになった。来年はその何かが明確になるような気がするが、それが明確になると、あるいは竿を置く事になるのかもしれない。いずれにしても、一回一回の釣行から無駄な釣行(暇潰しや惰性の釣り)を排除していった先にあるものが、竿を置く事なのではないのかと思えてならない。何を言いたいのか?それがわかっていればわざわざここで書く必要もない。というか、釣りは暇つぶし程度が一番いいのだと思う。思うが・・・

さておき、今年もよく釣りをした。昨年から急増した釣り人口(無論一過性のものだと思う)のせいか、どこの釣り場も盛況だった気がする。本来ならこの状況を喜ぶべきなのだけれども、1995年前後の不況下での釣りブームの結果を知っている身としては、手放しで喜べない。本当はそっとしておいて欲しいのが本音で、静かに釣りをしたいだけの私からしたら賑やかな釣り場は苦手、釣り人口増も苦手。というか、静寂と静謐を厳しく求められる釣りが本来の釣りなのではと思うのだが、如何に。

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A day in the Life

自粛はある意味外部から強要されたもので、私は正直反発の感情が湧きあがるのだけれども、「自制」は必要だなと思っている。こと釣りにおいては特に自制が必要だと痛感しているし、それを実践しないとならないと思う。
法律や規則に決められていなくとも、釣法の制限や獲っていい魚の数の制限など、個々のモラルに委ねられる事に関しては最大限自制しようとしている。
それを他の釣人に教条的に言うつもりはない。だけれども、これからもずっと釣りをしていきたい(特に日本の川でのヤマメやイワナなどを釣ること)と思うなら、自制は必要では?
自己顕示や承認要求を満たすための釣りはもういいのではないのかなと・・・

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A day in the Life

毎年、ライズの釣りに没頭する4月から6月。
ハッチの具合とライズの有無に気を揉みながらその3ヶ月ほどを過ごすのがここ15年の恒例となっている。
今年は結果としては平凡なシーズンだった。予定通りのハッチとライズだったとは言い難いが、それでも印象に残る釣りは出来た。
それと同時に、克服するべき課題も出来た。そして、未だフライフィッシングの入り口にも立っていないのだと再確認もした。早く初心者になりたいと切に願う、相対評価ではなく絶対評価としての。

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A day in the Life

20年ほど前に少し通っていた川に久しぶりに行ってみた。
かつては賑わいを見たその川は、今は何とも残念なものになっていた。それを嘆いても仕方が無いが、結局あの騒ぎは何だった?と思う。昔は良かった・・・的な意味ではなく、未来(つまりその時から20年後の今)へ向けていい釣り場を!という趣旨での、あの騒ぎは何だったのか、なのだけれども。
結局、釣人の意識、或いは釣人の「善意」に依拠した結果が今なのだとしたら、それは残念ながらそういう事なのだなと思う。

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A day in the Life

人を変えることは出来ないから、自分が変わるしかないと、この歳になってよく思うようになった。少し進歩したのかもしれないし、諦観に達したのかも知れないし、まあそんなものだと。

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A day in the Life

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ポストモダン」の終焉は近いのかもしれない・・・

散文としての2021年の回顧

Beyond Reason 理性を超えて

 ヒラスズキフライフィッシングで釣ることが私にとってのパイオニアワークだった頃の話。
理性を越えた先に。

 ・・・

 低気圧の通過した12月の朝濡れた山道をひたすら歩き稜線へ登り詰めたその眼下、木々の間からわずかに見える海岸線は、打ち寄せる波に覆われていた。
夜が明けるまでは雨が降っていた。今は降ってはいないが、未だ鉛色の雲が空を覆い、それは陰鬱とした色彩で水平線に溶け込んでいた。
稜線から山腹を降り磯に立つ。打ち寄せる波は強く、そして厚いサラシを形成していた。時折来る大波を注視しておかないと、身体を持っていかれるような荒れ具合だった。
磯際から少し離れ波の具合を見ながら、ロッドを継ぎ、リールからラインを引き出してガイドに通してゆく。その間も、幾重にも波が打ち寄せて来ては、汀を真白に覆い尽くしてしまう。

30ポンドのショックティペットにフライを結び、それをガイドに掛けてリールを巻き取り、ロッドを肩に担いで満潮の潮溜まりを歩き、打ち寄せる波のタイミングを見て少し大きな岩の上に飛び乗る。
飛び乗った岩の先は一面のサラシ。それは打ち寄せる波によって拡がっていた。その寄せる波の幾つかは、私の足を駆け上ってきた。
ガイドからフライを外し、リールから投げる分だけのラインを引き出して、足元に溜め、タイミングを見計らい、フライを投げる。波の引きによって出来る流れを感じながら、ラインを引きフライに動きを加えながら手繰り寄せてくる。

何度かそれを繰り返した後、その瞬間を迎えた。

リトリーブする左手の感じていた抵抗が消えたと同時に、サラシを割って跳躍したヒラスズキ。その後、ロッドとラインに重みが伝わった。
ギッと胃が締め付けられ、極度の緊張を強いられる。外れるな、外れるな・・・
少し長いやり取りの後、どうにか寄せてきたヒラスズキを、立っている岩の背後の潮溜まりへ誘導し、自身もそこに飛び降りる。腰まで浸かりながらヒラスズキの口を掴んで、大波が寄せて来ない内に安全な場所まで退避する。無事取り込めた・・・
足元に横たわるヒラスズキ。白銀の胴と薄く青みがかった背。メジャーを取り出し、長さを測り、デジタルカメラで魚体を撮影し、余韻に浸る間もなく、ヒラスズキを海に帰した。

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まだ釣れる・・・

やり取りで壊れたフライを新しいものに替えて、再び岩に飛び乗り、サラシに対峙する。先程と何も変わってはいない風景は、時間を逆行したかのようだった。

そして、再びその瞬間を迎えた。

今度は明確な躍動を手に感じ取った。やり取りも、少しばかり余裕が出来たのか、ロッドの描く曲線を見る事が出来た。それでも相変わらず胃が締め付けられる緊張感は変わらない。
無事取り込むことが出来たヒラスズキは、やはり白銀の胴と青みがかった背をしていた。口元に刺さったフライを外し長さを測って撮影して、海に帰した。

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2本目のヒラスズキを釣った後も、同じように、フライを新しいものに取り替えて、岩の上に乗り、サラシに対峙した。
そして、投げるべきタイミングを待った。

投げなかった。もういい、止めよう・・・

左手の指先で保持していたフライをロッドのガイドに掛け、出しておいたラインをリールに巻き取った。そして、岩から降りた。

もういい、もういい・・・

投げていたら、確実に釣れたはずだ。だけれども投げるのを止めた。
不意に、形容しがたい感情に支配された。それが何なのかはわからないが、既にヒラスズキを2本釣った余裕からではないのだけは確かだった。そんな事ではない・・・
それは理性を越えた先に、あるのかも知れないと、漠然と思った。

しばらく海を眺めてみた。相変わらずサラシが拡がっている。何か変化した事と言えば、鉛色だった空が、青く澄み切ったことぐらいか。
その青い空を見上げた。

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・・・

 今から13年前、2008年12月の出来事。

Beyond Reason 理性を超えて

 

 

 

 

 

回顧と展望 

2021年も1ヵ月半が経過した。相変わらず新型コロナウイルス(COVID-19)は収束及び終息の兆しが見えないような世の中ではあるが、あと少しで河川が解禁だと思うと、気持ちが軽くなり身体も軽やかに動くような気になる。早く川原に立ちたい。

昨シーズンは、どこかで醒めた感覚を孕んだまま川原に立つ日々だった。魚と私との切実な間合いでの対峙ではなく、自分自身の釣りの姿や川の流れやハッチやライズ、それらを含めた風景を自身の背後から他人事のように傍観しているような距離感で釣りをしていた。いや、昨年だけではなく、程度の差こそあれいつもそういう節はあったが、それがより先鋭化した年だった。そういう感覚は、ありふれた言い方をすれば「私という他人を演じている私」ということにでもなるだろうか。それは強烈な自我の認識なのか。ともかく、他人である私を演じているという感覚を孕んだまま釣りをすることが多かった。
そういう感覚は、ある種の思索には良いとは思うけれども、魚釣りに於いてはどうもいまいち釣りに主体として没入できていないようで、何か勿体無いなという俗欲の感情が湧いてくるばかり。それは例えば、何人かで川を遡行しながら釣りをしている時に、眼前の釣りにのめり込んでいる釣友を見ていて、絵空事のように後を付いて行く私はその姿を羨ましく思えたりといった感情。自分自身も同じように釣りをしているのに、どうも何か主体として釣りに没入できていない・・・そう感じるのは、或いは年月だけは一人前に重ねてきた釣りキャリアに於いて染み付いた垢のせいなのではないのか?いつも釣りに行けば、川原に立てば、それは日々是新、新しい世界の構築だと口では言いつつも、どこかで同じことの繰り返し、過去の記憶と記録をなぞっているだけの、予定調和を地で行くだけの、釣りになっているのじゃないか?などと、多少自嘲気味に分析してみたり。何と面倒な性格なこと・・・

道元禅師は、只管打坐というけれども、只管打坐(この場合釣りではあるが)を繰り返している内に、疑念めいたものを孕んでしまい、迷中迷(めいちゅうめい)に陥っているのが、昨年の私の釣りだったのかも知れない。

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そんな昨年だったが、それなりに印象的な釣りや魚には出会った。
ライズを釣ることだけを目的にもう15年ほど通いつめている川で、それまであまりやった事のなかった、荒い瀬を大きなドライフライを動かしながら下る、フラッタリングの釣りがそれだった。
フラッタリングの釣り・・・何となくルアー的で積極的にすることは無かった釣りだが、5月の連休明けのある日に、オオヤマカワゲラに対して激しくライズするヤマメを見つけて、それを釣った時から、鮎の解禁で釣りが難しくなるまで、フラッタリングの釣りに傾倒した。毎年良型のヤマメを釣るプールでのイブニングをすっ飛ばしてまでして・・・
しかしながら、いい釣りは初回だけだった。あとは尻すぼみになっていくばかりだった。ハッチのピークに、偶々そのいいタイミングで釣りが出来たというだけだった。
それでも、核心部分でフラッタリングさせると激しく反応してくる様を見た時の、気持ちの昂ぶりをもう一度とばかりに、最後までそれを続けた。静かな水面で静かにライズする魚と対峙した時の気持ちの昂ぶりとはまた違った種類の興奮を得るために。

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わかってはいる、だけれども、どうしようもない・・・

そういう身の置き所の無い自身の中にあるものを抱えたまま、今季も川原に立つことになりそうだが、まあそれが釣りなのかなと・・・

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回顧と展望

 





 

 



散文的な日々に

散文的な日々の事柄について


新型コロナウイルス感染症 (COVID-19)の世界的流行。今年2020年は、未来の歴史書において特記すべき年であろうことは想像に難くない。昨年末(2019年末)の中華人民共和国武漢市に端を発した流行は、7月現在全世界を席巻し(パンデミック)、未だ収束の目処は立たず、ワクチンの開発、治療薬の開発、効果的な予防法、それらの成果もはっきりとしない状況で世界の人々は日々暮らしている。
私個人も例外ではなく、いわゆる「行動変容」「対人距離(ソーシャルディスタンス?)」などのよくわからない文言だらけの「新しい生活様式」に取り込まれつつ日々暮らしている。色々面倒な事ばかりで、うんざりしながらも、マスクを着用しての外出と、手の消毒の徹底や、対人距離の確保、人の密集する場所への立ち入りを出来るだけ避けるように努めている。そんな日々の事柄からいくつか・・・

 

この7月、私は本来なら、青く澄み切ったアイダホの空の下で水草のなびく川に立ち込み、悠々とライズし悠々と流したフライを無視し続ける鱒に翻弄されているはずだった。それがこんな事になってしまうとは想像すらしていなかった。構想すること数年、本気で準備を始めて1年、スケジュールを調整し資金を調達し釣具を誂えて、後は機上の人になる日を待つばかり・・・だったのだけれども、思わぬところで足を掬われてしまった。「是非に及ばず」本能寺の変の際、謀反を企てて襲撃してきたのが明智光秀だと告げられたとき、信長はそう言ったと歴史書にはあるけれども、私はこの様な仕儀に至ったことに対して「是非に及びたい」心中だ。天下を目指した人と、ライズを目指した凡庸な人(である私)との差は如何程のものかはともかく、私は直ぐには諦観の境地には至らず。今となっては、まあ仕方がないよね・・・と思うばかりだが。

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この感染症の流行を受けて、あれこれとよろずの事を考察してみた。こんな時でもないと考えたり調べたりしないような事をあれこれ拾い集めてみた。集めたのはいいのだが、私の性分からしてどれにも着手しながら、まあそのどれもこれも中途半端なままで、考察の途中だったり、結論というか中間報告すら覚束ないような状態ながらも、幾つか深淵を覗き見たくなるようなコトガラには辿り着いた。例えば、オンライン会議を始めとする、対人関係の「オンライン化」の行き着く先にあるものは生体としての人間の消滅(というか、量子コンピューターと常温核融合炉が実用化されたらその素地は十分に満たされると素人ながら思うが)になるのか?という事。漠然としたイメージでしかないが、そうなった世界を見れるなら見てみたい(その場合、その世界を見ているのは、記憶媒体に集約された自分自身なのか、現在の有機的な細胞の集合体の生体の自分自身なのかは判別できるのかがわからないが)という気持ちは強い。まあこのようなアイデアも、もはや古典的ではあるから、何を今更な感じではある。が、そのSF的、空想科学的なものは着実に実態となってきた歴史を顧みれば、あながちアホな妄想ではないだろうと思うのだが・・・(参考にした南直哉さんのブログ記事を添付しておきます)身体の行く末 - 恐山あれこれ日記 

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「ポストコロナ」という言葉が散見される。単純にコロナの後の新世界というほどの事なのだろうけれども、まるで「ポストモダン」みたいに使われていて、私は「ソーカル事件」を思い浮かべてしまう。二つの言葉は、完全なる一致はないものの、構造的には似ているのではないのかと、大した根拠もないままそう投げかけておく。「コロナ」の時代とその周辺の事象を、ポストコロナという言葉を使い衒学的に解説し聴衆を欺瞞に落とし込むのではないのかと邪推しておく。にしても・・・猫も杓子も「コロナ評論家」になってしまった感がある中で、自分自身がそれらをどう捌いていくのかは、まあ先ず以っての私の課題・・・

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散文的な日々に・・・

対峙すること  ~釣人の眼前の風景~

釣人は絶えず対峙している。

それは魚であったり、

水面であったり、

風であったり、

太陽であったり、

漆黒の暗闇であったり、

輝く月であったり、

嵐であったり・・・

しかし、本当に対峙しているものは「何か」ではない何か。

彼らの眼前の風景は、それではない・・・

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Was vernünftig ist, wird wirklich, und das Wirkliche wird vernünftig. (Hegel)

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理性的であるものこそ現実的であり、

現実的であるものこそ理性的である

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静かなる事を、学べ・・・