自転車と釣りと余白と

自転車と釣りと周辺の余白について

散文的な日々に

散文的な日々の事柄について


新型コロナウイルス感染症 (COVID-19)の世界的流行。今年2020年は、未来の歴史書において特記すべき年であろうことは想像に難くない。昨年末(2019年末)の中華人民共和国武漢市に端を発した流行は、7月現在全世界を席巻し(パンデミック)、未だ収束の目処は立たず、ワクチンの開発、治療薬の開発、効果的な予防法、それらの成果もはっきりとしない状況で世界の人々は日々暮らしている。
私個人も例外ではなく、いわゆる「行動変容」「対人距離(ソーシャルディスタンス?)」などのよくわからない文言だらけの「新しい生活様式」に取り込まれつつ日々暮らしている。色々面倒な事ばかりで、うんざりしながらも、マスクを着用しての外出と、手の消毒の徹底や、対人距離の確保、人の密集する場所への立ち入りを出来るだけ避けるように努めている。そんな日々の事柄からいくつか・・・

 

この7月、私は本来なら、青く澄み切ったアイダホの空の下で水草のなびく川に立ち込み、悠々とライズし悠々と流したフライを無視し続ける鱒に翻弄されているはずだった。それがこんな事になってしまうとは想像すらしていなかった。構想すること数年、本気で準備を始めて1年、スケジュールを調整し資金を調達し釣具を誂えて、後は機上の人になる日を待つばかり・・・だったのだけれども、思わぬところで足を掬われてしまった。「是非に及ばず」本能寺の変の際、謀反を企てて襲撃してきたのが明智光秀だと告げられたとき、信長はそう言ったと歴史書にはあるけれども、私はこの様な仕儀に至ったことに対して「是非に及びたい」心中だ。天下を目指した人と、ライズを目指した凡庸な人(である私)との差は如何程のものかはともかく、私は直ぐには諦観の境地には至らず。今となっては、まあ仕方がないよね・・・と思うばかりだが。

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この感染症の流行を受けて、あれこれとよろずの事を考察してみた。こんな時でもないと考えたり調べたりしないような事をあれこれ拾い集めてみた。集めたのはいいのだが、私の性分からしてどれにも着手しながら、まあそのどれもこれも中途半端なままで、考察の途中だったり、結論というか中間報告すら覚束ないような状態ながらも、幾つか深淵を覗き見たくなるようなコトガラには辿り着いた。例えば、オンライン会議を始めとする、対人関係の「オンライン化」の行き着く先にあるものは生体としての人間の消滅(というか、量子コンピューターと常温核融合炉が実用化されたらその素地は十分に満たされると素人ながら思うが)になるのか?という事。漠然としたイメージでしかないが、そうなった世界を見れるなら見てみたい(その場合、その世界を見ているのは、記憶媒体に集約された自分自身なのか、現在の有機的な細胞の集合体の生体の自分自身なのかは判別できるのかがわからないが)という気持ちは強い。まあこのようなアイデアも、もはや古典的ではあるから、何を今更な感じではある。が、そのSF的、空想科学的なものは着実に実態となってきた歴史を顧みれば、あながちアホな妄想ではないだろうと思うのだが・・・(参考にした南直哉さんのブログ記事を添付しておきます)身体の行く末 - 恐山あれこれ日記 

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「ポストコロナ」という言葉が散見される。単純にコロナの後の新世界というほどの事なのだろうけれども、まるで「ポストモダン」みたいに使われていて、私は「ソーカル事件」を思い浮かべてしまう。二つの言葉は、完全なる一致はないものの、構造的には似ているのではないのかと、大した根拠もないままそう投げかけておく。「コロナ」の時代とその周辺の事象を、ポストコロナという言葉を使い衒学的に解説し聴衆を欺瞞に落とし込むのではないのかと邪推しておく。にしても・・・猫も杓子も「コロナ評論家」になってしまった感がある中で、自分自身がそれらをどう捌いていくのかは、まあ先ず以っての私の課題・・・

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散文的な日々に・・・