自転車と釣りと余白と

自転車と釣りと周辺の余白について

回顧と展望 

2021年も1ヵ月半が経過した。相変わらず新型コロナウイルス(COVID-19)は収束及び終息の兆しが見えないような世の中ではあるが、あと少しで河川が解禁だと思うと、気持ちが軽くなり身体も軽やかに動くような気になる。早く川原に立ちたい。

昨シーズンは、どこかで醒めた感覚を孕んだまま川原に立つ日々だった。魚と私との切実な間合いでの対峙ではなく、自分自身の釣りの姿や川の流れやハッチやライズ、それらを含めた風景を自身の背後から他人事のように傍観しているような距離感で釣りをしていた。いや、昨年だけではなく、程度の差こそあれいつもそういう節はあったが、それがより先鋭化した年だった。そういう感覚は、ありふれた言い方をすれば「私という他人を演じている私」ということにでもなるだろうか。それは強烈な自我の認識なのか。ともかく、他人である私を演じているという感覚を孕んだまま釣りをすることが多かった。
そういう感覚は、ある種の思索には良いとは思うけれども、魚釣りに於いてはどうもいまいち釣りに主体として没入できていないようで、何か勿体無いなという俗欲の感情が湧いてくるばかり。それは例えば、何人かで川を遡行しながら釣りをしている時に、眼前の釣りにのめり込んでいる釣友を見ていて、絵空事のように後を付いて行く私はその姿を羨ましく思えたりといった感情。自分自身も同じように釣りをしているのに、どうも何か主体として釣りに没入できていない・・・そう感じるのは、或いは年月だけは一人前に重ねてきた釣りキャリアに於いて染み付いた垢のせいなのではないのか?いつも釣りに行けば、川原に立てば、それは日々是新、新しい世界の構築だと口では言いつつも、どこかで同じことの繰り返し、過去の記憶と記録をなぞっているだけの、予定調和を地で行くだけの、釣りになっているのじゃないか?などと、多少自嘲気味に分析してみたり。何と面倒な性格なこと・・・

道元禅師は、只管打坐というけれども、只管打坐(この場合釣りではあるが)を繰り返している内に、疑念めいたものを孕んでしまい、迷中迷(めいちゅうめい)に陥っているのが、昨年の私の釣りだったのかも知れない。

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そんな昨年だったが、それなりに印象的な釣りや魚には出会った。
ライズを釣ることだけを目的にもう15年ほど通いつめている川で、それまであまりやった事のなかった、荒い瀬を大きなドライフライを動かしながら下る、フラッタリングの釣りがそれだった。
フラッタリングの釣り・・・何となくルアー的で積極的にすることは無かった釣りだが、5月の連休明けのある日に、オオヤマカワゲラに対して激しくライズするヤマメを見つけて、それを釣った時から、鮎の解禁で釣りが難しくなるまで、フラッタリングの釣りに傾倒した。毎年良型のヤマメを釣るプールでのイブニングをすっ飛ばしてまでして・・・
しかしながら、いい釣りは初回だけだった。あとは尻すぼみになっていくばかりだった。ハッチのピークに、偶々そのいいタイミングで釣りが出来たというだけだった。
それでも、核心部分でフラッタリングさせると激しく反応してくる様を見た時の、気持ちの昂ぶりをもう一度とばかりに、最後までそれを続けた。静かな水面で静かにライズする魚と対峙した時の気持ちの昂ぶりとはまた違った種類の興奮を得るために。

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わかってはいる、だけれども、どうしようもない・・・

そういう身の置き所の無い自身の中にあるものを抱えたまま、今季も川原に立つことになりそうだが、まあそれが釣りなのかなと・・・

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